ストラヴィンスキー“春の祭典”

music070411.jpg季節柄などというのは柄でもないのに、ついハルサイなど聴いてしまっている。

ロシア人作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが、20世紀クラシック音楽に止めを刺したあの“春の祭典”(Le sacre du printemps, 1913)である。パリ初演の騒動はクラシックファンにはお馴染みの挿話だろう。あまりの先鋭振りに劇場は騒然、演奏が聴こえなくなるほどだったという。

現代の感覚で聴くなら、それ程の拒否反応があったことなど俄かには信じ難い。確かに、この曲は今聴いても実にイマジナティブかつエキサイティングである。クラシックに対してある種の固定的な印象を持っている人がこれを聴いたら、相当に驚くだろうことは想像に難くない。

とにかく表現が奔放で、どこを取り出しても退屈するということがない。

出足の穏やかな春の情景に気を許してはいけない。恐ろしく緻密に織り上げられた音の洪水が、盛大な不協和音を伴って襲いかかってくる。あくまでもリズミカルに、あくまでも彩り豊かに。それは不快どころか、眠っている脳を揺り起こすが如き快感だ。イマジネーションの奔流が止まらない。

正直、こんなものをどうやって演奏しているのかと思う。クラシック音楽というのは、ある意味では机上の音楽だろう。作曲家は自らのイマジネーションを、理想的な形で5線譜に書き付ける。それは極めて理論的で理知的な芸術の形といっていい。案外に硬い芸術ジャンルなのである。

ところが、このハルサイは、恐ろしく緻密でありながら、どこまでも奔放である。いわば理をはずしている。とても考えて書いたとは思えない。普通に同時代のクラシック界を生きた人間なら、オーケストラでこんな音を出そうとは思わないだろうし、これが音楽になり得るとも思わなかったはずだ。

演者にとってこれほどキツい演目もないんじゃないかと思う。テクニックもメンタルも生半ではやり通せそうにない。下手な映像よりも映像的でスリリングな展開。下手な絵画よりも絵画的で色彩豊かなヴィジョン。2部構成全14曲のすこぶるエネルギッシュな「祭典」は一種の苦行だろう。

疾走、躍動、狂乱、絶叫…。

古典的なクラシック音楽とは決定的に違っていて、かつ、理解不能な前衛に陥ってもいない。ほとんど奇跡的な均衡の上に成立している。理屈抜きに興奮できる。クラシック音楽のエポックとして屹立し、いまだに人々の心を捉え続けている所以だろう。

この名曲の定番録音といえばブーレーズの1969年録音盤である。ハルサイの魅力を知るにはもってこいの名盤だろう。ぼくが初めて手にしたのもこれだった。そして、ごく最近買って気に入っているのがサロネンの新盤である。これが実に丁寧かつドラマティックな演奏で聴き応え十分。

サロネンは1989年にフィルハーモニア管弦楽団と演った旧盤の評判もいいようだけれど、実はこちらは聴いたことがない。懐深く豊穣な2006年盤とはまた違った、若さ溢れる指揮振りに興味がそそられる。その内に買ってみるつもりだ。演奏による振れ幅の広さもハルサイの魅力だろう。

プログレ好きなんかにも激しくお薦めのクラシック音楽である。

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